『杉村太郎、愛とその死』を読んで。
初めて杉村太郎さんに出会ったのは、今から3年前、大学3年の3月だった。
”出会った”、といっても、ご本人にお会いしたわけではない。
彼の20年以上にわたる就活本のベストセラー、『絶対内定』を手に取ったのだ。
そもそもの始まりは、杉村太郎さんが手がけたキャリアデザインスクール・学究館現館長の熊谷さんとの出会いだった。
大學の時、僕は全国の国公立の高校から60人程度選出される電通育英会という民間では最大の奨学金を受給していた。
この奨学生になると、奨学金だけではなく将来社会に貢献する人財の成長を促すための年に一回の泊りがけのセミナーと、各界で活躍されている著名人を招いた講演会が提供される。
熊谷館長と初めてお会いしたのは大学3年時のセミナーだった。
就活を控える僕たちのためのカリキュラムで、絶対内定の存在もその時知った。
それから時は流れ、就活が本格化し、外資系コンサルファームの選考に敗れた僕は、日系大手のエントリーシートがバカバカと落とされていく中でボロボロの状態だった。
覇気もオーラも、いつものお調子者でテキトーな感じも、全くと言っていいほど感じられないそれこそ別人のようだったと、かつての同志たちからからかわれるほどだった。
そんな中、ふと絶対内定が頭に浮かんだ。
「もう就活も終盤に差し掛かってんのに今更、、、」と思いながらも、すぐに本屋に足を運び手に取った。
ドカンと来るものがあった。
購入者の9割は挫折すると言われている556ページにわたる内容を、気づけば読み切っていた。
だが焦燥しきっている当時の僕には、彼の言葉はおそらくちゃんと届いていなかった。
なんとか内定はもらったのものの、巷で言う就活の失敗に絶望し、もう一度本腰を入れて『絶対内定』に向き合うことになる。
ここから、杉村太郎さんとの物語は始まった。
この本は何度目を通したかわからない。
思い悩んだ時、道に迷った時、いつも太郎さんの言葉を振り返った。
とにかく本から溢れだしてくる彼は、熱く、エネルギーに満ちていた。
次第に、どうにかして杉村太郎さんその人を知りたいという思いが強くなっていた。
しかし、ネットで調べてみてもぜんぜん情報が出てこないし、かつて時間を共にした熊谷館長にお話を聞かせてくださいというのは、やはり過去の人に関わっていることだから気が引ける。
そんな中、杉村太郎氏のパートナーとして傍に寄り添った杉村貴子氏が、彼と出会ってからの13年間を綴った本が出版された。
それが、『杉村太郎、愛とその死』である。
手に取って数十ページ読んだ後、僕はすぐに本を閉じた。
居ても立っても居られなくなったのだ。
ビシビシと伝わってくる情熱に突き動かされ、おざなりにしていた仕事を一気に片付けた。
妻・貴子氏の言葉の中にも、「杉村太郎」がいた。
いつも思う。本なのに、文字しかないのに、なぜこの人はこんなにもエネルギーが伝わってくるのだろう。
内容としては、大きく「ハーバードケネディスクールへの留学」と「ガンとの闘病」の2部にわかれている。
おそらくこの2つが、貴子氏が夫と歩んだ人生の中で感じとった大波であり青春だったのであろう。
このことは本書の冒頭にも述べられている。
その2つにフォーカスを当てた話は、貴子氏が大学3年生の頃に太郎氏に初めて巡り合った場面から始まる。
結婚、出産、留学、闘病と、最も真近で太郎氏を見てきた人間が感じた「杉村太郎」が、著書『アツイコトバ』の引用を織り交ぜながら綴られていく。
そんな中で繰り返し「杉村太郎」の人間像を象徴するかのような言葉がいくつか出てくる。
「絶対を信じる」、「夢」、「エネルギー」、そして、「愛」。
絶対内定でうっすらと出来上がっていた輪郭が、貴子氏の言葉で一つ一つ明確になっていく。
偉大、というよりかは本当に熱く、強く、愛に溢れた人だったのだろうと想像できる。
これまでの話や、彼の著書を読んでいると、彼は「人生を全力で生きろ」を体現している超絶スーパーマンそのものだ。
しかし、貴子氏にもらした数少ない言葉や彼女が傍で見て感じとったことから、そんな太郎さんも苦しみ、思い悩みながらも前に進み続けた一人の生きた人間であったということが感じられることが出来る。
最後に。
本書の中で太郎さんが貴子氏に語った絶対内定にかける想いが幾度か登場する。
「これ(絶対内定)は、僕の遺書だと思って書いてるんだ。僕が死んだ後でも、若者の生きる道を示すことができるように、この指先から血が出るような思いで書いているんだ。」
貴子氏は、太郎さんのことを”心に棲む人”だと表現している。
ここにも一人、その想いを受け取った人間がいる。